カプランとは?|80周年を迎えて

今年、カプランは80周年という大きな節目を迎えます。
英語教育事業にあたるカプラン インターナショナル イングリッシュの他に、高等教育事業にあたるカプラン パスウェイなど、様々な事業を展開しており、これまで多くの留学生の夢の実現へのお手伝いをしてきました。
ここから、全ての事業をまとめるカプランが、どのようにして誕生したのかを、設立者・スタンリーカプランが歩んできた人生と共にご紹介します。

スタンリーカプランの個別指導
カプランの原点はこの人、スタンリーカプラン

 

本に囲まれた幼少期

Kaplan, Inc.は、ユダヤ系アメリカ人のスタンリー カプラン(Stanley Kaplan)によって、今からちょうど80年前の1938年に設立されました。
実際に会社ができたのはスタンリーが19歳の時ですが、彼の教育への関心はそれよりずっと前からありました。これは、スタンリーの母・エリカ(Ericka)の存在が大きく影響したと言われています。

エリカは、才女でありながらもカレッジへの入学を拒否された過去から、自分の子供達を必ず大学に行かせたいと強く願いました。その影響か、自宅の地下にある遊び部屋には、百科事典をはじめ発明家の自伝や冒険小説など、様々なジャンルの本をたくさん置いたそうです。7歳のスタンリーは、それらの本をもって、近所の子供たちに向けた小さな“図書館”を運営し始めます。手作りの会員カードや延滞料金など、本物さながらの図書館です。

そして、スタンリーが9歳になる頃には、教えることへ興味が移ります。
スタンリーの自叙伝「Test Pilot」の中で、自身の子供時代について、こう振り返っています。

他の子供達がお医者さんごっこをしている間、私は先生を演じていました。なので、私の友だちが分数やパーセントなどで困っていたら、鉛筆と紙を持って問題の解き方と説明しました。

クラスメートの中には、彼の行いをありがたく思う人もいれば、同い年の少年から教わることにそこまで好意的ではない人もいたそうですが、そのことが教えることに対しての気持ちを妨げるものではありませんでした。ある時は、スタンリーが生徒にお金を払い、彼が説明するのを聞いてもらうこともありました。
 

落第寸前の生徒の家庭教師に

そして時は世界恐慌の時代に移り、カプラン家の豊かな暮らしも大打撃を受けました。
自営業の配管ビジネスには失敗し、スタンリーの父親も病気になってしまいます。それからというもの、スタンリーの父親が不安や屈辱から立ち直れることはなかったそうです。しかし、その頃には、既に教えることに関して抜きん出た才能をもつスタンリーに、周囲の人々も気づき始めます。家族を支えるため不規則な職に就いていたものの、学校では2段階飛び級をし、同級生に勉強を教えることの他に“非公式”で代数学教師のアシスタントとしても働きます。そしてある日、学校の人事カウンセラーが提案したことが、その後のスタンリーの人生に大きく影響していきます。

それは、時給25セントで落第寸前の生徒の家庭教師になること。スタンリーが14歳の時でした。

スタンリーにとって教師になることが将来の夢ではありませんでした。
当時、親がアメリカに移り住んだ後のち生まれた子供達は、医学の道に進むことが望まれていました。ユダヤ系の2世であったスタンリーもそれを感じていましたが、そのプレッシャーはスタンリー自身が自分にかけているものでした。スタンリーの両親は、教師への道を進んでほしいと願っていたかもしれません。しかし、家族の経済状態の改善と社会的地位を取り戻すためには、医学の道に進むことが一番と考えたのです。

しかし、申請したメディカルスクールからことごとく落とされてしまいます。飛び級をして18歳の時点で既にカレッジを卒業していたスタンリーは、メディカルスクールに入学できる学力はあると信じていたので、その結果が不思議でしょうがありませんでした。そしてある日、絶望的な結論に至ります。それは、彼がユダヤ人で公立の学校に出席していたから。もしこれが私立の大学を出ていたのであれば、彼の生い立ちなどはあまり影響しなかったかもしれません。しかし、世間の俗物的な思考と反ユダヤ主義は大きくのしかかってきました。スタンリーがこのことを忘れたことは一度もありません。それでもスタンリーが19歳になった1938年、昔図書館として使っていた両親の地下室で教えることを始めます。両親の家の外に “Stanley H Kaplan Education Center” と書かれた表札をぶら下げました。

ブルックリンにあるカプラン家
個別指導を始めた、両親の家

 

 

1人の生徒との出会い

時は流れ1946年、スタンリーのもとにエリザベスという学生が、カレッジの入学審査で新しく導入されたテストSATに向けて手伝って欲しいと訪ねてきます。
スタンリーは、このテストに大変興味を持ちました。8年前、ステータスの低い学校から好成績で卒業したことは十分ではなく、 メディカルスクールを説得することもできなかった経験から、このようなテストで高得点を出すことで今まで彼の人生に立ちはだかってきた偏見の壁を越えられるのではないかと考えました。しかし、いざSATのテストを見てみると、それはとても理解しがたいものでした。なぜなら「SATは受験生の潜在的な能力をテストするものであり、知識をテストするものではない(=SATに向けての試験勉強は無意味 )」と書いてあったからです。これはスタンリーにとってはとても理解できないことで、学習能力というものは変えられないものではなく、論理的思考と問題解決力は改善できるスキルということを知っていました。そこで、スタンリーはエリザベスに数学の問題と読解問題を繰り返し行うよう指導します。彼女の分析力を伸ばすだけではなく、自信をつけるようにも働きかけました。そしてエリザベスはSAT試験をリラックスして受験することができたのです。スタンリーの個別指導でカレッジへの道を切り開けたエリザベスの体験は瞬く間に広がり、多くの学生が個別指導教室に押しかけました。もちろん、生徒が増えることによって得られたビジネスの成功は喜ばしいことでしたが、それ以上にうれしいことがありました。それは、高額な費用が必要な私立の学校に行けない生徒にも十分に競える機会を作り出し、多くの人に平等なチャンスを与えることができたことです。

数年間で地下室は生徒と本で一杯になりました。1951年には必要な機材が揃ったセンター第1号をオープンし、1957年には第2センターをオープンしました。1960年代になると、Kaplan Incは17のセンターを持つ企業に成長し、提供しているコースもSATだけでなく、GMAT、MCAT、GREなど、大学の入学審査に使われる重要なテストの対策コースも開講しました。スタンリーの 教授法の一つに、教材をよりよく理解することを掲げていたので、全てのセンターにテストとテープの図書室を設置しました。図書室をもっと勉強した生徒に公開し、クラスで習ったことを復習できるようにしました。このスタンリーのアプローチは現在のカプランのセンターにも受け継がれており、マルチメディアセンターやコンピュータールームは生徒が復習や予習などに使えるように設置されています。

個別指導の様子
評判は瞬く間に広がり、教室は生徒で一杯に

 

 

受け継がれる教育への熱意

当時、スタンリーの成功は全ての人達に認められていたわけではありませんでした。
カプランに通う多くの生徒が成績を伸ばした実績は完全に無視され、カレッジボードやETSは、まだSATに向けて勉強することは不可能でスタンリーのことを詐欺師と大差ないように扱いました。しかし、1979年にFederal Trade Commissionが調査をし、カプランのメソッドが実際にSATのスコアを上げることが証明され、正しいことが証明されました。会社は更に大きくなり、アメリカをはじめ、海外にセンターを広げます。そして1983年、カレッジボードはスタンリーを毎年開催されるコンベンションに登壇者として招待しました。46年以上もの間ずっとのけ者のように感じられたスタンリーが、教育機関に認められた瞬間でした。

Kaplan Inc,をワシントン ポスト社に売却したあとも、スタンリーが作り上げた学びの場所で教え続けました。56年間教育に情熱を注ぎ続けたスタンリーは、1994年、75歳で現役を退きます。Kaplan Inc,が設立される前から、教育に対する熱い思いがあったように、それはスタンリーが退職されたあとも受け継がれています。スタンリーの妻・リタと ヘルスケアやアートそして教育にも力を入れた「Rita J and Stanley H. Kaplan Family Foundation」を設立しました。

2009年、90歳でスタンリーは人生の幕を閉じますが、素晴らしい功績を残しました。それは世界中にいる何万の生徒達に教育への機会を作り、将来無限の可能性につなげることができたのです。そして今日のカプランも、多くの学生に教育の場を提供し、夢の実現への一歩を踏み出せるお手伝いをします。

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